ida Corporation 物語

大阪に多言語でビジネスをサポートする会社がある。
アイ・ディー・エー株式会社だ。

代表取締役はトッド ボーディン。
カナダのアルバータ州生まれだ。



1989年。
トッドは大手電子機器メーカーのマニュアル制作会社で大阪にて勤務することになる。

事の発端は友人のブルースであった。

カナダにいた頃のブルースは、日本が大好きだった。
今のようにインターネットが発達していない。
テレビや映画のイメージが先行していた頃のことである。

日本に来た二人。

喜び勇んで日本を訪れたブルースは愕然とした。
侍、武士、忍者・・・。
そこには彼のイメージする日本は無かったからだ。

結果としてブルースは、それ以来二度と日本を訪れていない。

反対にトッドはイメージを持たずに日本に来た。
そもそも「日本ってどこだっけ?」という感覚だったのだ。
その結果、ブルースとは違い、
見るもの、聞くこと全てをうまく受け取ることができた。

先入観を持たないということは、固定観念を捨てるということにも通じる。

やがて、大手電子機器メーカーのマニュアル制作会社からフリーランスになったトッド。
今までは黙っていても仕事はあった。
その仕事をこなしてさえいれば収入になっていたのだ。

しかし、フリーランスとなるとそうはいかない。

翻訳の案件をこなしてゆくことはもちろんだが、
自ら営業し、顧客を獲得することも仕事の一つとなった。

異国での今までにない体験。

日本人でさえフリーランスとして案件獲得はたやすいことではない。

収入が激減する。しかし、生活はしなくてはならない。

毎月毎月の支払いに追われる。
通帳の残高は見る間に少なくなってゆく反面、不安だけは大きくなってゆく。

やがて、ついに資金が底をついた。

本来であれば、故郷のカナダに戻るという選択をするだろう。

しかし、トッドは違った。
なんと、カナダの家を売却したのだ。

ただ単に仕事をし、生活をするだけならカナダに戻るという道も選べたはずだ。
しかしトッドはこう思ったのだ。
「カナダに帰っても自分のしたい仕事があるとは限らない。」

人生という時間は平等に与えられている。
すべての一分一秒、それは自分という人間に使うことが許された時間。
どう使うかを決めるのはもちろん自分自身だ。

適当に生きるか。自分らしく生きるか。

日本にいることで、居続けることでそんな仕事にめぐり合うチャンスが生まれるのではないかと考えたのだ。

ひとまずは家を売却したことで日本での生活を続けることができるだろう。
しかし、今のままではいずれまた資金が底をつくことになる。

決断だった。
本当に自分がしたい仕事を探す。そのためにこの日本にとどまったのだ。
フリーランスであり続けることは、決して目的ではない。

そして、かつて一緒に日本を訪れた友人、ブルースが働いていた大阪の翻訳会社に就職することを決意した。



管理部 取締役 中村明子。
トッドと共にidaを創業した人物だ。



学校を卒業後、叔父の仕事を手伝い、後に出版社に入社した。

主に対談の仕事を扱ったライターをして活躍する傍ら、フリーランスとして翻訳もこなしていた。

後に出版社を卒業し、大阪の翻訳会社に入社した。

元々文章を書くのが得意だ。
持ち前の明るさも買われて、数々の案件を任されるようになった。
内部、外部問わずの外国人ライターとプロジェクトを組み、案件をこなしてゆく。
多忙な毎日を過ごしていた。

入社してから6年後。
かつてその翻訳会社で働いていた外国人ライター、「ブルース」の紹介で一人のカナダ人が入社してきた。それがトッドだった。
その出会いがなければ、今のidaは生まれていない。

それから二人は数々の案件、プロジェクトをチームメイトとしてこなしてきた。

しかし、その翻訳会社は少しづつ経営に陰りを見せてゆくことになる。
どんどん少なくなってゆく自由度。会社として業務へのスピード感も失われてゆく。

迷っている暇などなかった。
今まで信頼してきてくれた顧客に申し訳が立たない。

そして何より、「自分らしい生き方」をするためにこの国に留まったのだ。

トッドは起業を決意した。

1997年。アイ・ディー・エー株式会社を設立。西天満に事務所を借りた。

全くのゼロからの始まりだった。
キャノンの販売店でコンピューターを買うところからのスタートだったのだ。

案件の数とともにスタッフが増え、それとともに事務所は手狭になってゆく。

パンフレットやチラシ、カタログの制作は、マッキントッシュの進化とともに劇的な変化を伴っていた。
つまり、仕事も進化していったのだ。

できる限りスタッフに働きやすいようスペースを確保するように努めた。
その結果、代表取締役社長であるトッドは本棚に挟まれた社内一狭いスペースで仕事をこなすことになった。

それまでのISDN回線から、やっと光回線が繋がった。
それと同時にホスティングサービスもスタートすることとなる。
そうなると、さすがに狭いビルの中では限界があった。

もちろんWEBサイトの制作にしてもそうだ。
当時まだ日本には情報が無かった。

アメリカで発表された内容が、半年後にやっとコンピューター雑誌の記事に載るくらいのタイムラグがあったのだ。

トッドは仕事の上で様々なソフトウェアの扱いを覚えた。

仕事を依頼されたら考えるより先に「はい、できます」と答えるしかなかった。
「どうやってやるんだ??」と皆で知恵を出すのはその後のことだ。
とにかく固定観念を捨てた。

結果としてその経験が、他社では決してマネのできない「技術」をもたらしたのである。


2002年 現住所へと移転した。

その頃になると通常の翻訳案件だけでなく、様々な案件を依頼されるようになった。

大阪市の關市長からは、スピーチの原稿やプロジェクターで投影するためのパワーポイントの資料作成を依頼された。
在日カナダ商工会議所の関西理事を務めたのもこの頃である。

2006年には、少しでも残業を減らし職場環境を改善するためにリーダー育成にも力を入れ始めた。それはかつての自分自身がした経験-----会社に泊まり込んで徹夜を強いられていた頃の辛さを、今の社員に経験させたくないからであった。

結果として自ら考え行動に移してくれる社員が育った。
お陰でリーマンショックという大きな経済危機すらも乗り越えることができた。
「自分で考え、選択し、行動してくれる」。
そんな社員と共にこれからはシンガポールにも拠点を構え、一層のグローバル展開を行ってゆくのがこれからの目標だ。

創業からのこの17年間。早かったようでもあり、多くのことがあった。
最初はなかなかスタッフが定着せず、葛藤の連続だった。

しかし、仕事をする上での楽しみには二つあると思っている。

「常に新しいことを見つける」という楽しみと、「それでしっかり儲かる」という楽しみだ。
この楽しみはどちらか一方が欠けていては意味が無いように思う。

そのために「自分らしい生き方」を常に選択してゆきたい。

最後に代表取締役 トッド ボーディンはこう語る。

「ボクはコンピューター関連に集中して仕事を進めることができる。でもそれは45人ものスタッフをマネージメントして、セールスから経理までを担ってくれた明子さんのお陰だと思っている。ボクは楽な部分を担ったんだよ。彼女こそがサムライさ。
そして、いつも仕事をクリエイティブにこなしてくれているスタッフのみんな、Thank you very much. 心から感謝しているよ。」
 

文:福満ヒロユキ

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